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中学と高校の英語教科書の解説。英語の成績をあげていきましょう。

塾行かず、公立高校、現役で国立大学入学にした、僕の母親の英才教育法

こんにちは。初めまして。宗形諭史と申します。

このブログの著者の宗形諭史です。

 

僕は今現在、神奈川県横浜市で中学生と高校生をメインとした塾講師をしています。

 

50平米ほどの場所で約50名ほどに教えています。

 

学生時代、塾に在籍して通ったことはないにも関わらず、

地域1番の公立高校に進学し、

そして、横浜国立大学に現役で入学することができました。

 

 

塾に通った経験は

中学3年生の時の夏期講習と冬期講習

高校2年生の時の、5日間だけ、夏休みに予備校の授業を受けたことくらいでした。

そのため、塾の在籍経験はほとんどありません。

 

 

今回は、そんな僕がどのようにして中学校でオール5&学年1位を取り、

地域1番の進学校に通うことができたのか?

さらには国立大学に進学できたのか?

自分の親がしてくれたことをメインにお伝えします。

お子さんの受験で悩んでいる皆様に何かお役に立てたらと思います。

 

 

母親が小学校の時にしていたこと

僕の両親は、父親が公務員で、母はパートをしていました。

 

父は様々な事業の立ち上げでほぼ家にはいなかったため、母が教育係でした。

 

母は仕事に行っている間、毎日ノートに算数の問題を5問書いていってくれました。

 

学校から帰ってくると、毎日テーブルの上にノートが置いてありました。

そして、それを開くと日付が書いてあり、その下に問題が5問あったんです。

 

 

そして、「その問題を解いたら好きなことして良いよ」と書置きがありました。

いかに塾に通わずに学力をあげたのか



時にはお駄賃があって、100円など置いてあったりと臨時収入もあるのが嬉しかったです。

 

小学1年生、2年生の時は素直だったので笑

そのノートに書かれている問題を毎日行なっていました。

 

習慣化は力です。

学校の算数のプリントがかんたんに思えて、宿題が早く終わる

なんともおトクな気持ちになれました。

 

母が置いていった算数の問題をしていたら、時には臨時収入もあり、

学校の宿題や問題も余裕で終わり、遊びに行く。

 

母のおかげで、小学生ながら、文武両道のメリハリがついていたように思います。

 

 

母は習い事を無断で休む以外は怒らない人

母は怒りませんでした。

母に怒られた記憶は、友達との遊びが好きすぎて、習い事が嫌でサボった時くらい。

 

 

算数のノートに関しての問題についてはやらなくても怒らなかったんです。

 

でも、問題をしていないと、「用意していたのになぁ」と少し寂しい顔をしていたので、僕も母を喜ばせるつもりもあって、問題を解いていました。

 

 

母が出してくれた問題は、

先取り学習はほぼせず、

四則演算が中心のノートでした。

 

 

今学んでいる部分のところを、復習として行わせていました。

 

家での学習が学校でつながる。

やれば、学校の学習が早く解ける。

とても良い習慣ができていたと思います。

 

 

しかし、ずーっと勉学が順風満帆だった訳ではありませんでした。

小学3年生の時でした。

 

 

担任の先生が大嫌いで大脱走。その時、母親は?

小学2年生までは、宿題も簡単でした。

その当時、宿題は算数と国語。

漢字も簡単でした。

 

そのため、クラスの中でも、宿題もしてくるし、テストも点数が取れるし、成績は良かったのだと思います。

 

 

しかし、小学3年生の時に、環境がガラッと変わりました。

大卒で入ってきた新任の女の先生が、

問題児いっぱいの僕のクラスを担当しました。

 

小学3年生のときにクラス替えがあって、問題児が集結してしまったのです。

 

クラスは荒れ放題。

ガキ大将のいいなりに多くの同級生がなっていき、

担任のその女の先生は余裕がなかったのだと思います。

 

 

事件が起きてしまいます。パンカビ事件

今振り返ってみると、あのときは僕がいけなかったんだと思う恥ずかしい話です。

 

ある日の給食の時間帯にパンが配られた時、カビのようなものがついていたので、

「これは食べれないな」とゴミ箱に捨てると、

 

「宗形くん、なんでそんなことするの?拾って食べなさい!」と

強制的に拾わされて食べさせられそうになりました。

 

今までの鬱憤もたまっていたし、頭ごなしに怒られるのに腹が立ってしまって、

こんな教室と先生なんかもう嫌だ、と学校から脱走してしまったんです。

 

多くの大人と友達が僕を捕まえようとおっかけてくるので、

子どもながらに必死になって逃げて、田んぼの中に入り込んでみんなを巻きました。

 

しかし、泥だらけになり、鍵も持っていないので家にも入れず、

保健室の先生とその担任の先生が家まで来たので逃げ続けました。

 

そしてちょうどその時、母が帰ってきました。

 

 

脱走をした僕への母親の対応とは?

自体を把握できていなかった母ですが、保健室の先生から話しを聞いて状況を理解。

僕は、怒られるのを覚悟していたのですが、母から出た言葉は、

 

「諭史くん、なんだべー。大丈夫だったかい?学校で嫌なことあったんだねー」

と僕に寄り添ってくれる言葉でした。

 

僕はその時、母のこの言葉に号泣です。

 

そして、「足も土がいっぱいついちゃってるから、まずは洗おうね」

 

担任の先生は全く理解してくれずに頭ごなしに怒ったのに、母は寄り添ってくれた。

その安心感たるもの、これ以上に勝る愛はありませんでした。

 

 

母はその後も、「学校に行けなかったら保健室の先生が味方してくれるから、保健室でも良いからね」といってくれて、

 

本来なら学校に行けない状態になるところが、母には迷惑をかけられないと思い、翌日から登校したことを覚えています。

 

 

もちろん、僕の大脱走は、ずーっと語り継がれる黒歴史になり、小学生を卒業してからもずーっと言われ続けることになりましたが・・・

 

 

家の中にいる母親の存在が、僕に寄り添ってくれていたので、

外の社会である学校でつらい思いをしても、無条件に許される場所があるんだと安心できたのでした。

 

 

小学3年生4年生は勉強が停滞気味・・・特に得意という自覚なし

小学生の時は、担任の先生がほとんどの教科を担当します。

 

 

信頼がなくなってしまった担任の先生から学ぶことや、

小学3年生からは理科と社会の教科も増え、算数や国語もむずかしくなってくるからか、

小学2年生までで得意だと思っていた学校の教科が全く得意ではなくなっていきました。

 

 

3年生や4年生の成績は、中の下くらいだったと思います。

先生にも嫌われていたので、当然ですよね笑

振り返ってみると、こういう暗黒の時も、時には大切だったりします。

 

 

そして5年生になりました。

また、次の大卒の新任の先生が来ました。

今度は男の先生でした。

 

 

実は僕は剣道を小学1年生から習っていまして、そこそこ強くて、

東日本大会や県大会などたくさん行くようになっていました。

 

先生は、それを尊重してくれて、「宗形はすごいなぁ」と褒めてくれました。

また、学級委員長にも選ばれるようになり、代表者として自分に自信がつきました。

 

この頃はもう、母の算数ノートはありませんでした。

3年生と4年生のときの暗黒時代、勉強は手につかなかったので無理にはさせなかったのだと思います。

 

 

しかし、これも偶然なのか、母は教育業界のパートに行くことになりました。

それは、「はつらつ」という通信教育の会社で、今で言う進研ゼミなどと同じ感じでした。

 

 

時々はつらつの会社に遊びに行くと、社長に臨時収入で500円もらったり、

「算数だけでもやっておいで」と言われて嬉しくてやっていったりと、

なんだかんだ、環境的には勉強をすると大人が喜ぶ感じの環境の中にいました。

 

そして、ここが大切なのですが、

自分に自信がつくと、周りの起きてくる現象が変わってくることに気づきました。

 

学級委員長、剣道の大会入賞、先生から褒められ、はつらつの社長に褒められ、母に褒められる。

 

そして、算数だけはつらつをする。

 

学校では理科はボロボロの40点とか、今ではもう時効なのでいっちゃいますが、カンニングするとか、まったく良いところなかった僕ですが、

 

算数だけは、4月から10月まですべてのテストで100点をキープなど

奇跡を起こしました。

 

 

しかし、それも5年生のことだけ。

6年生になると、学級委員からは外れ、目立った成績はなく、時が流れました。

 

 

父と母の英才教育??

夢を叶えるためにはビジョンを見せる、ビジョンを描くと良いと言われます。

 

父と母は、事あるごとに、地域一番の高校だった学校の近くを通ると、「ここが諭史くんが通う高校だよ」と言って僕に聞かせました。

 

小学生の時、中学生の時は、別に進路のことをそれほど考えていなかったので、「ふぅーん、そうなんだ。ここが僕の通う高校か」と思って気楽に考えていました。

 

信頼している両親の話はすんなりと聞く癖もあったため、

素直に何の疑いもなくそう思っていました。

 

 

その高校は、地域で一番頭が良くて、試験を受けないと受からない高校とは全く知りませんでした。

 

でも、幼いながらに「高校生になったらここに入学するんだー」となんとなく思っていたのです。

 

 

中学進学前の母親の提言から学力があがった

母の英才教育は小学6年生の3月に始まりました。

 

ある2つの金言を僕に対して発したのです。

 

そして、はつらつのある英語の教材が中学にあがってから

その効果を大きく発揮することになりました。

 

中学時代、最も通学圏が遠く(1.5キロほどありました。)、部活もしていた僕がなぜ塾にも通わずに成績が伸ばせたのか?

 

それは、母のこの2つの金言のおかげでした。

 

ここからは大変恐れ入りますが、有料記事になります。

 

中学生の塾だけで年間40万円が3年分、高校の塾だとその倍になるかもしれません。

しかし、この記事を読んでいただけたら少しでもその額が少なくなるかと思います。

 

また、以下の有料記事について何かご不明点や質問などございましたらいつでもサポートをさせていただきたく思います。

僕直通のメールアドレスを有料記事に記載させていただきます。

 

有料記事には、

・母がしてくれた小学6年3月の英才教育

・中学の学習のすべては英語と数学の予習と復習から始まる

・中学入学前から使っていた英語が得意になるきっかけのはつらつの教材とは?

・テストの時の母親の声かけは?

・中学3年生で学年1位&オール5になった理由とは?

・高校は試練の始まり?

・母が高校時代に僕にかけた衝撃の一言とは?

 

などなどを収録しております。

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